<グルミット村の寺院にて>

グルミット村の寺院にて

 旅の中では、「 なんとなく 」という理由はよく使われる。

 

 計画性のない無責任な言い方だが、行った事のない土地を予測することは不可能なわけで、結局、地図上の位置関係、街の名前の響きなど、いい加減な事で行き先を決定してしまう。なので、実際に目的地に着くと、目的がない為に、ただ歩き回る事になる。旅とは、そんなものだと自分を納得させる。

 

 北インドの山奥のこの集落でも、人々は優しかった。遠くにある家から、手を振っている人の姿が見え、私は、そのまま家に招かれた。お茶とクッキーを頂き、お礼に写真を撮った。私は以前、四国へ行った時の事を思い出す。あそこでも、同じように親切にしてもらった。あまりの嬉しさに、恋をしている少年のように、真っ暗な夜道を大声で歌いながら、自転車で四万十川を下った時を思い出す。

 

 ここ、ラダックは、荒野にぽつりぽつりオアシスのように点在する小さな緑の中のみに集落が出来る、辺境のチベット仏教の土地である。村には必ずと言っていい程に寺院があり、その日も最後には、いつものように村の寺院に足を運んだ。

 

 高台から村を望む寺院。頭をかがめて中に入ると、真っ白な外壁を見た後では、目が慣れるまで前に進めない程に中は暗い。私は、光が漏れる扉を見つけ、中に入ってみた。そこには、柔らかい外光を受けた黄金色の仏陀と、何とも言えない静寂の空間があった。私は、その心地よさに、近く座っていた一人の僧侶の存在に、しばらく気が付かなかった。私は、僧侶に少しお布施をして、写真を撮っていいかとカメラを指差した。僧侶は静かに頭を下げた。

 

 私が三脚の準備をしている間、僧侶は静かにろうそくに火を灯し始めた。私は、ゆらゆら揺れる静かな炎のように満ち足りた空間の中にいる自分を感じた。

 

 旅とは、いいものだ。本当のものを感じさせてくれ、本当の理解を与えてくれるのだから。あの寺院の中にある充実感、人の優しさに接した時の安堵感、私は心の平和を実感したのだ。これこそ本当の幸せと思いたい。