<サドゥーの意味>
彼らはサドゥーと呼ばれる、ヒンドゥーの修行者である。基本的には、特定の家を持たず、聖地を巡礼したりして、自由に暮らしている。サドゥーにどのような定義があるかは解らないが、彼ら自身が自称しているのでそうなのであろう。
彼らは、動かない。普段は、他の大きい寺院の隣に建てた小屋に住み、観光客からの布施などで生活しているようだ。基本的に生産性というものから程遠い存在である。インでには、このような人達がたくさんいる。インドでは生きていけるのである。彼らは、直接的にお金を生産する事、産業に携わる事はないが、インドという国の中で、重要なシンボル的な必然の存在なのではないだろうか。
以前、私はある先輩から、スタジオを辞めて海外へ長期撮影旅行へ出かけることについて、このように言われた事がある。
「日本人が海外で写真を撮ってどうなる。お前がやろうとしている事は、全く生産性がないじゃないか。」
ちゃんと広告写真で生計を立てていた先輩からしてみれば、当時、私がしようとしていた事は、趣味や遊び程度にしか思えなかったのだろう。実際、仕事ではなかったので、言ってる事は間違っていない。しかし、私は、その先輩が言う「生産性」という言葉に引っかかった。
私は、生産とは、ただ金を生産するだけの、経済発展に貢献するだけのものではないと思った。現代の日本人は、経済的な富を得た反面に失ったものが沢山ある筈である。私は、その失ったものを掘り起こしたかった。あるいは、自分に足らない何かを掘り起こしたかったのである。
私は、サドゥーを見ると思う。彼らは、人間の最も人間らしい部分から生産された人種である。そして、彼らも、金を生産する事はないが、形のない大切なものを生産していると思う。
今、日本は、理由が失われた時代である。人々は、理由も定かではない状態で、一つの方向に突っ走る。何の為に働くか、何の為に生きるのかを真剣に考えてしまう時代である。
サドゥー達は悠々自適である。一部のサドゥーは真剣に苦行などしているみたいだが、ほとんどのサドゥーはのんびりしている。
私には、サドゥーが語っているように思える。
「おい、日本人よ。もう少しのんびりいこうじゃないか。生きていくのは、案外簡単だぜ」