<小さな寺院の前庭にて>

小さな寺院の前庭にて

 夕方、友人であるギリ・ジーがいる小さな寺院へ足を運んだ。拝殿には人影はなく、寺院の裏から鍵盤楽器の穏やかな音色が流れていた。

 

 私は、素朴な音色に誘われて、彼が寝泊まりしている建物へ向かった。その中で、彼はアコーディオンのような楽器を演奏していた。私に気がついた彼は、高床を二回程叩き、ここに座れと促してくれた。彼は、そのまま演奏を続けた。

 

 私はチャイをすすりながら、しばらく、そのアナログな楽器から鳴る優しい音を堪能した。気持ちよくなりながら、木製の格子窓越しに外を眺めていると、一人の男が、縄に繋がれた一頭の牛を連れて来るのが見えた。男は、縄の先の杭を庭の地面に打ち付け、杭がしっかり地面に刺さっているのを確認すると、来た方へ戻って行った。牛は地面に生える草をむしゃむしゃと食べている。普通の風景である。私は、その後も音楽を聴いて、ベンガル語を教わったりしていた。その間も牛は草を食べ続け、移動できる範囲内の草を食べ尽くそうとしていた。

 

 しばらくすると、先ほどの男が戻ってきた。男は、牛が繋がった杭を引っこ抜き、また、少し離れた所に杭を打ち付けていた。先ほど、杭が打たれていた場所は、円の形に草が禿げていた。草刈機の様である。牛はまた、草を食べ始めている。

 

 私は世話役の男が戻って行く姿を見て、なるほど、自然の中で暮らす人は、頭がいいと思った。ガソリンを使い、排ガスを出し、人力を使う高額な草刈機などは使わないのだ。

 

 機械は資源や時間を浪費する一方である。ここでは、ただ、牛を地面に繋いでおけばいいのだ。その餌は、糞として排出され、乾燥させた糞は着火剤や薪の代わりに使われ、人に食事を与える。余った食事は牛が食べる。全ては繋がり、廻っている。彼らは自然を知っている。自然を知っている人は、効率的で無駄のない生活を送っている。必要な事を当たり前に理解し、やるべきことを当たり前にやっているのだ。

 

 私は、本当に頭が良い人、知恵を持っている人とは、このような人を指すのではないかと思う。