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<フラワーマーケット>

フラワーマーケット

 カルカッタのハウラーの橋の下に、ボロ小屋が集まるのフラワーマーケットがある。私は、時間があるとそこへ足を運んだ。

 

 ある日、地面いっぱいに広げられた花々に見とれて写真を撮っていると、一人の男が、花一輪を何も言わずに私に差し出してきた。ふざけた様子は微塵もない。先程、私が彼の作った花飾りを撮影したお礼らしい。

 

 花に囲まれているからなのだろうか。彼に限らず、ここの人達は何とも言えない優しさをまとっているように思える。花の優しい色、優しい香り、優しい形が人の影を明るくしているように思えた。本人達にしてみれば、花は生活する為に必用な売り物でしかないかもしれない。売るものが、たまたま花であっただけで、売り物が神に捧げる花である事も全く意識していないのかもしれない。しかし、私には、この人達の優しい表情は、花売り独特のものに見えた。明らかに、花に囲まれたこの環境に影響されていると感じたのだ。

 

 花は、そこにあるだけで、特別に人間に対しての動きがある訳ではない。ただ、そこに存在しているだけである。しかし、その存在こそが環境であって、人を動かす力となっているのだと思う。人は、周りの存在に動かされている。

 

 ある作家の言葉。「子どもより、親が大事と思いたい」

 解説などでは、親である作家の苦境を表した言葉として扱われている。しかし、私は、それだけではないと思う。簡単に言えば、「子は、親を見て育つ」ということである。親の幸せが、子の幸せだと単純に考える。

 

 親のストレスは、歯も生えぬ赤ん坊にも見破られる。子供にしてみれば、親、家庭は絶対的に重要な環境だ。その親の幸せなくして、子供の幸せなどあるのだろうか。逆に言えば、親さえ幸せであれば、子は自然に育つのである。人にとって重要なのは、環境だと思う。人は環境によって動かされる。自分でやった、自分が切り開いたなどと思うのは高慢なのではないだろうか。私は、環境がその人の背を押してくれるのだと思う。

 

 フラワーマーケット。あの、柔らかい光の中、花売り達は、花と同じくらい優しさを持って座っていた。あの優しさは、花から貰った優しさなのではないだろうか。

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